2004年2月8日 “コトバの乱れ、その進化”

 

「ら抜き言葉」が批判された時期があった。

10年くらい前だったと思う。

食べられる>食べれる

若者のコトバの乱れの最たる例だと言われたものだ。

そんな言語学者の憂いをよそに、ら抜き言葉は急速に広まり、

コンビニのキャッチフレーズにまで採用されるほど、

いつしか市民権を得るまでに浸透した。

“しゃべれる・食べれる”なんつってね。

 

こういうコトバの乱れ、気になるヒトはとっても気になるらしい。

『サラダ記念日』で有名な歌人の俵万智が、

レストランの店員の言葉遣いが気になると言っていた。

「こちらハンバーグになります」

これからハンバーグになるのかと。

ならば現状は何なのだ、と。

どうやらそういう事らしい。なるほど。

また、こうも言っていた。

「私ってサカナがダメな人だから」

いるよねえ、こういう言い回しを好んで使うひと。

これは俵万智の分析によると、

決して自分ひとりがおかしいのではなくて、

“サカナがダメ”という大きなグループが存在し、

自分はあくまでもそのメンバーにすぎない、という、

孤立を恐れる心理的背景が言わせているのだそうな。

うーん、おもしろい考察だなあ。

それにしても、俵万智なんて新しいコトバの先駆者みたいな人でも、

そういうのって気になるもんなのね。

“新しい”と“乱れ”は違う、ってトコかな。

 

ちなみに僕は、コトバの乱れに興味シンシンです。

けっこう肯定的。

例えばレストランなんかで

「ハンバーグでよろしかったですか?」

なんて言われると、ちょっとウレシイ。

自分のコトバで接してくれているカンジがするのだ。

「ハンバーグです」「ハンバーグのお客様は?」

が正しいのかもだけど、マニュアル的で、

なんか冷たいカンジがするんだよねえ。

店員も無表情だったりしてさ。

 

ら抜きコトバも、場合によっては便利だと思うんだよね。

“食べられる”のひとことだと、食べることが出来るのか、

はたまたライオンに食べられちゃうのか、

それだけじゃあ判別できない場合、あるでしょ。

“しゃべれる・食べられる”って書いてあるから入ってみたら、

そこが実は有名な『注文の多い料理店』で、

しゃべった後に食べられちゃうかもしれないでしょ。…。

“食べれる”なら、必ず「可能」を意味してるもんね。

合理的といえないこともなくはないかもしれない。

コトバは生き物。

“乱れ”は“進化の芽”という側面も

あるんじゃないかな。

 

ところで補足というか蛇足なんだけど、

ら抜きコトバが浸透したことによって、

“食べれる”“生きれる”のように、

“れる=可能”と認識するあまり、

飲める>飲めれる

読める>読めれる

行ける>行けれる

といった具合に、思わず“れ”を

付け足してしまうヒトがいる、らしい。

これを「れ足す言葉」というんだそうな。へぇ。

そう言われると僕も普段、

「ゴメン今日行けれない」

とか言ってる気がする。やっばー…。