2004年3月7日 “大胆なキセル”

 

妹の職場は新宿にあるのだけれど、

その朝はたまたまJR中央線の市ヶ谷駅に集合だった。

 

朝のラッシュにもまれているところへ、

学生だろうか、同い年くらいの女の子が

「あの…」おずおずと妹に声を掛けてきた。

はじめは知り合いかとも思ったそうだ。

でも、どうにもその顔を思い出せない。

困惑していると、

やがてその女の子は思い詰めた顔で口を開いた。

「…10円、貸して貰えませんか」

拍子抜けしたのは妹だ。

懇願するような目で声を掛けてくるから何かと思えば、

たかだか10円。

妹はあきれたけれど、当の本人にとっては大事件。

普段は定期券を使っているので油断した、

といったトコロだろう。

「いいですよ」

“貸して貰えませんか”とは随分な言いようだ。

返すあてなどないだろうに。

もとより、返して貰うつもりもないけれど。

ところが、妹は自分の財布を開けてみて、

所持する全財産が100円玉一枚であるのに気が付いた。

そろそろお金を下ろさないとと思いつつ、

今朝まで延ばしのばしにしてきたのがアダとなった。

普段は定期券を使っているので油断した、

といったトコロだろう。

妹は一寸躊躇したけれど、

「どうぞ」

女の子になけなしの100円玉を渡してしまった。

JRの運賃は初乗りでも130円なのだから、

100円玉を持っていたところで

妹の危機的状況は変わらないのだし、

なにより、一度「いいですよ」と言ってしまった心意気を

慌てて引っ込めるのでは、どうにも格好が悪い。

女の子はしきりに感謝しながら電車を降りていった。

よもや恩人が一文無しになったとは知らずに。

 

さて、いかんともし難いのは妹だ。

もちろん新宿までの定期券は持っているのだから、

新宿駅に一度戻ってATMでお金を下ろせばいいのだけれど、

それでは完全に遅刻してしまう。

あれこれ思案する間もなく、妹は市ヶ谷駅に着いてしまった。

やむなく改札の駅員に声を掛ける。

「駅構内にATM、ありませんか」

しかし駅員の口からは、改札内にATMは設置されていない、

と、無情の答え。

ところが、事情を説明しようと思った妹をよそに、

駅員は「あそこに銀行がありますよ」と、改札の外を指さした。

妹は反射的に「ありがとうございます」といって、

何食わぬ素振りでその場を後にした。

もちろん、改札を素通りして。

 

仕事を終えた妹は、市ヶ谷駅で新宿までのきっぷを買い、

そのきっぷで市ヶ谷駅の改札をくぐり、

いつもの定期券で地元の駅の改札を出たが、

とくに咎められることは無かったそうだ。

定期券には、地元駅の改札で構内に入り、

そのまま同じ改札を出た、という記録が残ったはずだ。

ただ、その日の妹は駅の中で、

たっぷり12時間は過ごしたことになるのだけれど。